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氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―
氷室雪臣の環愛―契約結婚のはずですが、孤高の御曹司はマリッジリングを外さない―
Author: 花絵 ユウキ

一幕/第一話 『雨の記念日』 ◆珠希

last update publish date: 2026-07-31 09:28:46

「直人さん……! 直くん……お願い、ドアを開けて……」

 パタ、パタ、と地面に染みができていく。涙ではない。降り始めた夕立だった。

 痛んできた腹部と、肩を叩きつける雨が焦燥感を駆り立てる。

 ――赤ちゃんが………このままだと、赤ちゃんが……。

 ポケットをまさぐるが、スマホが入っていない。あるのは、たった一枚の千円札。

「……お願い……誰か、助けて……」

◇    ◇    ◇

 一時間ほど前――。

 薄っすらと蝉の声が届く。窓から差し込む日差しが、瓶の中のオイルを光らせた。

 ……白トリュフのオイル。

 なんでも、乾(いぬい)家ではもう何年も前からサラダにはこの白トリュフのオイルを使っているのだと、結婚当初、義母が鼻を鳴らして言っていた。

 この家に来たからにはマヨネーズなんてベタベタしたものを使わないでちょうだい、と一言添えて。

「よし……急いで仕上げちゃお」

 間に合わなければまた怒鳴られる。

 珠希は台所で料理を進めながら時計を一瞥する。

 十六時三十分。

 ジュエリーに仕立てる前の裸石――ルースの展示会へ出かけている直人が帰宅するのは、十八時頃のはずだ。このまま順調に仕上げれば間に合う。

 サラダに白トリュフのオイルをかけ回しながら、小さく頷いた。

 乾 珠希(いぬい・たまき)は、今日で二十七歳になる。

 同時に夫の直人(なおと)と一緒になって三年目の結婚記念日を迎えた。大学時代、同期として出会った彼と、まさかこんな未来を過ごすとは一度も想像したことがなかった。

 今日、珠希は仕事を休んで、普段よりも少し手の込んだ料理を作っていた。

 誕生日だからではない。結婚記念日だからでも、ない。

 そう、他でもない、やっと授かることができた子どものためにだ。

 不妊治療は一年半続いた。直人はこの期に及んで医師の説明を鼻で笑っていたが、直人側の――男性不妊によって、人工授精を繰り返しても妊娠は一度も成立しなかった。

 顕微授精まで進んで、ついに、赤ちゃんの心拍を確認することができたのだ。

 お腹に手を当てると、少しだけ頬が緩む。

 今日は、お腹に来てくれた赤ちゃんのために、腕を振るう。冷蔵庫を見ると、自然と目が細くなった。しかし珠希は、再びサラダボウルの中へ視線を落とす。

 ――今日こそ、直人さんとお義母さんに赤ちゃんのことを伝えなければ……。

 妊娠初期での流産のリスクは医師から聞いていたし、ぬか喜びをさせたくなくて、直人と義母に言い出せないでいた。

 それでも、これ以上隠しておくのも厳しい。つわりが徐々に悪化してきているからだ。

 そのとき、ガチャリ、と玄関の扉が開く音がした。

 予定よりだいぶ早い帰宅に思わず肩が跳ねる。目を瞬かせる珠希は蛇口をひねって軽く手を洗った。

 そして、パタパタ、とスリッパを鳴らしながら玄関へ向かう。

「おかえりなさ――」

 声を掛けようとした珠希の動きが止まった。

 見覚えのある白いパンプス。目線を上げると、これまた既視感のある女性らしいプロポーション。

 直人と義母の隣に、桃沢ルリカ(ももさわ・るりか)が、片眉を下げて立っていた。

 ルリカは、直人が社長を務め、珠希がジュエリーデザイナーとして在籍する会社――INUI Jewelryへ入社してきたばかりの若手。確か、部署は宣伝部。

「桃沢さん……?」

「はぁ~、もう最高よ。片岡梅之丞の勧進帳のお話ができるなんて」

「わたしも嬉しいです、歌舞伎大好きですから」

「本当、あなたって気が合うわ」

 珍しく声を弾ませている義母が、靴を脱ぎ、手に持っていた三越の紙袋を珠希の胸元に押し付けてきた。

 袋の隙間から覗く代物に、冷や汗が伝う。蜂蜜だ……。先週、買ってくるように義母から頼まれていたのに、仕事や不妊治療の件ですっかり忘れてしまっていた。

「ふん、蜂蜜すらまともに買ってこれない嫁より、最初からルリカちゃんが嫁いできてくれていたら、どれだけ良かったか」

 息継ぎもせず、義母が続ける。

「これだから母子家庭の娘なんて嫌だったのよ。……突っ立ってないで、お客さまにお茶くらい出しなさい」

 申し訳なさそうな顔で「お気になさらず」と会釈をしてきたルリカに、珠希は口を開きかけて、何も言えずに唇をかみしめた。

 隣で、舞台衣装よろしくといったメタリック生地の派手な銀色のジャケットを脱いで、無言で突き出してきた直人。その腕を、珠希は震える手で握った。

「どういうこと? なんで、桃沢さんがうちへ?」

「妊娠したんだ」

「え」

「桃沢さ――いや、ルリカが。俺の子を」

 ――桃沢さんが直人さんの子を……妊娠? 待って。なにを言っているの。だって、直人さんは……。

「そんな。冗談でしょ、直人さん」

「だから今日ルースの展示会は行ってない。お前あとで青山石商に詫びの電話入れとけ」

 耳奥で爆ぜる鼓動の音に紛れてかろうじて聞こえてきた直人の台詞に、吐き気がこみあげてくる。精神的なものなのか、つわりなのか、そのどちらでもあるのか。

 珠希の手を払い除けた彼の目は、いつも以上に冷たかった。

 そんな珠希にさらなる追い打ちをかけたのは、義母の金切り声だった。

「なにこれ! 作り途中じゃないの。しかも、また脂っこい、品のない!」

 珠希が慌てて台所へ戻ると、作りかけの料理を義母が生ごみへ捨てている最中だった。「余計な洗い物ばっかり増やして!」そう怒鳴っていた義母の手の甲の皺に、リゾットのトマトソースが跳ねる。

「あぁ、お義母さま。よろしければわたしが片づけますわ」

 無造作にルリカが台所へ入ろうとしたとき、珠希は咄嗟に手を伸ばしていた。

 ――桃沢さん、危ない……!

 この家へ嫁いできたばかりの頃を思い出していた。

 他人に台所へ入られるのを非常に嫌がる義母は、台所へ上がった家政婦を木ベラで叩いたことがあったのだ。

 珠希が台所へ上がれるようになったのも、嫁いで半年が経った頃の話だった。

「きゃあ!」

 引き留めようとしたはずだった。しかし。珠希の手がルリカに触れる直前に、どういうわけか、彼女は叫びをあげながら、自らその場へ倒れこんだのだ。

「赤ちゃんが……!」

「あぁ、ルリカちゃん! ちょっと珠希さん……あなた今、突き飛ばしたの? どういうつもり!」

「ち、違います……! 桃沢さんが台所へ入るのを、止めようとして――」

 ふと後ろから肩を握りつぶされるほど強く掴まれ、振り返る。怒りを目に湛えた直人がそこに立っていた。

 何が起きているのかも分からない中、彼に腕を捕らえられ、強引に玄関まで引きずられていく。

 その最中、義母と共に台所に立ち、口の端を吊り上げるルリカの姿が僅かに見えた。

「痛い……直人さん、離して!」

「珠希、お前はもう二度と帰ってくるな! ルリカの中には俺の子がいる! いつまでも出来ないお前と違うんだよ!」

 外へ乱暴に突き飛ばされ、硬い玄関ポーチに腰を打ち付けた。

 待って、という珠希の声に被せるように閉められたドアが色褪せて見える。

「直人さん……! 直くん……お願い、ドアを開けて……」

 パタ、パタ、と地面に染みができていく。涙ではない。降り始めた夕立だった。

 痛んできた腹部と、肩を叩きつける雨が焦燥感を駆り立てる。

 今すぐどうにかしなければいけないのに、意識がもうろうとしてきてしまった。

 ――赤ちゃんが………このままだと、赤ちゃんが……。

 ポケットをまさぐるが、スマホが入っていない。あるのは、たった一枚の千円札。

 珠希はふらつく足取りで住宅街を抜け、大通りへ移動した。

 ふと足裏に痛みが走り、スリッパが脱げてしまっていることに気がついた。破れたストッキングに赤い血が滲んでいる。

「……お願い……誰か、助けて……」

 道路を走るタクシーに手を上げかけるが、目に飛び込んできた『送迎中』の文字に珠希は力なく地面に崩れ落ちた。

 いつだって、肝心なときに運は味方をしないのだ。

 激しく痛みだす腹部を押さえながら、声を押し殺すようにして泣いた。泣いたって、なにも変わらないのに。

 道路の少し先。歪む視界の片隅で、停車したタクシーの後部座席から黒い傘がパッと開く。

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